探索日:2007年12月24日

樹齢約300年の榎が植えられていましたが,大正13年頃に枯死したと言われています。

ありし日の高須一里塚

出典:沼隈郡誌 芸備郷土誌刊行会

2021年2月の様子

尾道市道バイパス側道高須線から,一里塚跡はよく見えていたのですが,最近,道路と一里塚跡の間に会社ができて,少し見えにくくなっています。

場所

中国行程記

萩博物館所蔵

萩藩の絵図方,有馬喜惣太の『中国行程記』 には,
「備後尾ノ道ヨリ一里,備中板倉ヨリ十六里」
と記してあります。

近隣の史跡

・福山・芸州藩境界碑

道を挟んで西側に「従是西芸州領」,東側に「従是東福山領」と刻まれ
た境界碑が立っています。

高須村と尾ノ道村,また,沼隈郡と御調郡の境目でもありました。

・防地番所跡

2021年2月撮影
2021年2月撮影
2021年2月撮影

ありし日の防地番所跡

出典:ふるさとの想い出 写真集 尾道 国書刊行会

防地番所跡は、江戸時代の備後国防地峠において備後福山藩と芸州広島藩との藩境に置かれた福山藩側の番所跡。現在の広島県尾道市高須町にあたる。なお防士峠とも呼ばれる。2015年現在文化財未指定

中世までの山陽道は尾道の北側の内陸部を通っていたのを、江戸初期安芸国・備後国双方を治めた広島藩主福島正則は慶長7年(1602年)今津宿(現福山市今津町)を設け近世山陽道(西国街道)を沿岸部に移した。元和5年(1619年)正則が改易された後、広島藩には外様大名浅野氏が入封、新たに福山には西日本の外様大名への防衛拠点“西国の鎮衛”として譜代大名が置かれることになり水野氏を入封し福山藩が興る。こうして福山藩と広島藩の藩境となった西国街道の防地峠において、元和5年に関所が設けられそれぞれの藩によって番所が置かれた。

当時の主要道である西国街道にあった関として大名行列・旅人など多くの人々が通過したと考えられている。現尾道市西久保町にある正念寺は当時峠を超えて広島藩内に入った旅人の休憩場となり、境内の井戸は「延命井」と呼ばれ旅の疲れを癒やした。戊辰戦争の際には旧幕府軍側となった福山藩に対して新政府軍長州藩は尾道から進行しここで双方が睨み合ったという。明治4年(1871年)廃藩置県によって役目を終えた。

現在、広島藩の番所は取り壊されており、現存するのは福山藩の番所のみになる。当時の番所建物がそのままの姿で残るものとしては、土佐藩の旧立川番所書院(国重文)と、丸亀藩の旧丸亀藩斥候番所(四国村内・香川県有形)、と防地番所跡の3ヶ所のみと言われており、更に移設せず峠を見下ろせる位置に現存するものとしてはここだけと言われている。民間で所有されており、1970年代までは使用されていた。当時の道標は双方ともに残っており、道路を挟んで東側が福山藩の「従是東 福山領」、西側が広島藩の「従是西 芸州領」の石標になる。広島藩側が少しだけ大きいのも特徴。

現在文化財登録はされておらず行政支援はされていない。地元団体「防地番所保存会」が説明看板設置や建物の保存活動を行っている。

防地番所跡 – Wikipediaより引用

最初に探索した2007年には,防地番所跡について,深く理解していませんでした。この度の探索で,全国的に貴重な史跡だと分かりました。

そのような貴重な史跡なのに,文化財登録もされず行政支援もないとは,歴史好きな管理人からすると,残念でなりません。

場所

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