探索日:2008年3月2日

2021年12月の様子

2008年に訪れた時は,ごみステーションを挟んで,一里塚跡と道標の石碑が建っていましたが,2012年に訪れた時には,一里塚跡が移動されており,隣り合わせになっていました。

瀬野川の「歴史」 - 瀬野地区 – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)には,一里塚跡について「広島札場より4里,この一里山は50丁道,尾道より約15里。筑紫紀行にも記された。」と説明がされています。また,道標については,「道標に「右四日市(現在の西条)左志和みち」とある。昭和20年(1945)9月の水害で川に落ちていた。」と説明があります。

これらの道標は,本来は橋を渡って向こう側の位置にあったそうですが,道路改修時に現在の位置に移設されたそうです。

場所

行程記

山口県文書館 所蔵

行程記には,「廣嶋札場ヨリ四里,備後尾ノ道ヨリ十五里」と記されています。

芸藩通史

国立公文書館所蔵

近隣の史跡

熊野跡分岐道標

2022年4月23日 撮影

「右:熊野跡 呉 左:八本松西條 方面」と刻まれています。

瀬野川の「歴史」 - 瀬野地区 – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)には,「旧山陽道と熊野往還の分岐点に道標がある。幕府巡見使が派遣された寛永10年(1633)設置とされている。」「現道標は大正時代のもの。」と説明があります。

この道標のある「一貫田」ですが,江戸時代には,西国街道の間宿として本陣が置かれ,宿場町として栄えました。

場所

行程記

山口県文書館 所蔵

芸藩通史

国立公文書館所蔵

「芸藩通史」の「上瀬野村」には一貫田の宿場町の様子が描かれています。

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