探索日:2008年3月2日

2021年12月の様子

瀬野川の「歴史」 - 瀬野地区 – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)には,「備後尾道より14里、広島札場より5里50丁道と記す。寛永10年(1633)の巡見使巡察の時に設置されたといわれる。」と説明があります。

場所

行程記

山口県文書館 所蔵

行程記には、「廣嶋札場ヨリ五里、備後尾ノ道ヨリ十四里」と記されています。

芸藩通史

国立公文書館所蔵

近隣の史跡

吉田松陰詩詠の地

2022年4月23日 撮影

瀬野川の「歴史」 - 瀬野地区 – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp) には,「吉田松陰が安政6年(1859)5月安政の大獄で江戸へ護送されるときに詠んだ瀬能(瀬野)の詩の説明板がある。」と説明があります。

この地で次のように詠んだそうです。

瀬野山路水相従  瀬能の山路,水相従ふ

到處鼕々聞石淙  到る處鼕々(とうとう),石淙(せきそう)を聞く

田色遥青入挽夏  田色遥かに青く晩夏に入る

樹陰清絶想寒冬  樹陰清絶(せいぜつ),寒冬を想う

歳如奔馬連催我  歳は奔馬の如く,連(しき)りに我を催(うなが)す

松以幡龍不改容  松は幡龍(はんりゅう)に似て容(かたち)を改めず

陪駕前年過此地  駕に陪(したが)ひて前年此の地を過ぐ

低回有涙向詩傭  低回涙あり,詩に向かって滽(ものり)し

この5ケ月後の10月に, 30歳の若さで惜しくも刑死しました。吉田松陰には,ここ瀬野の風景はどのように映っていたのでしょうか。

場所

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