探索日:2012年5月14日

国指定文化財解説文

松江以西舊藩道ノ一里塚ニシテ塚ハ道ヲ挾ミ略東西ニ相對シテ存ス候土ハ何レモ洪水ノ爲ニ洗ヒ去ラレタルモ東塚ニハ目通幹圍約十四尺ノ松樹アリ北側ニ假屋ノ名殘ヲ留ムル舊宅アリ西塚ニ目通幹圍約十二尺ノ松樹二株アリ ソノ南側ニ假屋ノ宅阯アリテ舊松江藩街道ノ特色トシテ舊態ヲ見ルニ足レリ

出西・伊波野一里塚 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)より引用

切り株が残っている一里塚跡は,広島県の「下素麺屋一里塚跡」「山家一里塚跡」「地蔵河原一里塚跡」があります。切り株が残っているだけでも,趣が違います。

場所

近隣の史跡

・荒神谷遺跡

二千年の眠りから覚めた出雲王国の証

一片の土器からはじまった遺跡調査

1983年(昭和58)、広域農道の建設に伴い斐川町神庭西谷周辺で遺跡分布調査を行ったところ、調査員の一人が田んぼの畦で須恵器(古墳時代の後半から日本でつくられた陶質の土器)の破片を拾いました。

この谷の南側に「三宝荒神」が祀られていることから遺跡名を「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」と命名、翌年1984年から始まった本格的な発掘調査により、銅剣358本が発掘されました。

それまで全国で出土した銅剣の総数は約300本、荒神谷遺跡はそれを一ヶ所で上回る出土数で、当時の日本古代史学・考古学界を大きく揺るがす大発見となりました。

さらに翌年の1985年にはそこから7mほど離れた地点で銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が出土。これらは全て1998年に「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。

358本の銅剣

遺跡の場所は斐川町の仏経山(ぶっきょうざん)から北東3kmの位置にあります。

標高22mの小さな谷間の南向きの斜面に上下二段の加工段が作られ、その下段に刃を起こした状態の銅剣が合計358本、4列に整然と並べた形で埋められていました。

銅剣は約2200年前の弥生時代前期、朝鮮半島より武器として伝わってきたといわれ、銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金で、作られたときは金色の輝きを帯びていたものと思われます。

これらはいつどこで作られたものかなど、はっきり分かっていませんが、同じ鋳型で製造されたものが多いことから、同じ時期に同じ場所で作られたものだと考えられています。

荒神谷遺跡|出雲観光ガイド【出雲観光協会公式ホームページ】 (izumo-kankou.gr.jp)より引用

銅剣が出土された若かりし当時,このニュースを聞いて,是非とも行ってみたいと思っていました。ただ,遺跡の名前や場所など情報としてインプットしていませんでした。

この探索時に,たまたま「伊志見一里塚跡」から「出西・伊波野一里塚跡」に行く途中に,「「荒神谷遺跡」という遺跡があるなー」って感じで寄ってみました。すると,銅剣が一ヶ所で358本出土された,あの遺跡でした。

上記記載の出雲観光ガイドには「二千年の眠りから覚めた出雲王国の証」とありますが,管理人も古代出雲に大和朝廷に匹敵する大国があったと信じており,その場所に立てた思いから,感動して震えがきました。

また,隣接している「荒神谷博物館」は,大量に発見された青銅器の発掘の様子やレプリカの展示など,見ごたえがある施設でした。

場所

ディスカッションに参加

4件のコメント

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です