参考資料



おおたけ歴史探訪~西国街道を訪ねて ~ /大竹市ホームページrekishitanbou1.pdf (city.otake.hiroshima.jp)から引用
おおたけ歴史探訪~西国街道を訪ねて ~ /大竹市ホームページ rekishitanbou11.pdf (city.otake.hiroshima.jp)から引用

一里塚は,鉾の峠(ほこのたお)と呼ばれる峠の中間くらいの場所にあったといわれ,一往還松も植えられていたそうです。

その後にも目安となる杭が立てられていたといわれていますが,今は何も残っていません。

推定される場所

中国行程記

萩博物館所蔵  「近世芸備の山陽道」 発行者:広島県立歴史博物館 から引用

中国行程記には,「周防尾瀬川堺ヨリ二里,廣嶋札場ヨリ七里当ル」と記されています。

芸藩通史

国立公文書館所蔵

近隣の史跡

玖波の高札場跡と角屋釣井

2021年12月撮影
2021年12月撮影

場所

玖波も西国街道の宿場町で,安芸国の最終駅でした。

高札場とは,幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き,人目のひくように高く掲げておく場所のことです。

2021年12月撮影

芸備地域(広島県)の西国街道宿場

洪量館(本陣)跡

2021年12月撮影

本陣は高札場の50m西におかれていました。

屋敷の奥は現在の国道2号線あたりまであり,その先は海になっていました。

本陣から望む瀬戸内の素晴らしさは諸国にも聞こえ「洪量館(こうりょうかん)」と名付けられ,文人墨客の集まるところともなっていました。

慶応2年(1866)の第二次長州戦争によりすべてを焼失しました。

復元想定図 高札場跡と角屋釣井 設置の案内板より

場所

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