探索日:2021年2月4日
「西国街道」に設置された「安芸境小瀬川ヨリ二十二里 赤間関ヨリ十四里」の一里塚です。
この一里塚の上の山を「石ヶ坪山」というので,「石ヶ坪一里塚」と呼ぶ人もいるそうです。
場所
御国廻御行程記
小郡は「津市」と呼ばれていた
「東津橋」の近くの「藩米津出蔵跡」という説明板によると,江戸時代,吉敷郡や美祢郡などから集めた年貢米をここから船で運びだしており,椹野川のこの辺りは港だったそうです。
港のことを「津」といい,小郡の「市」は港の近くの市なので「津市」と呼ばれたそうです。
明治前半の絵図
この絵図からも,小郡が港であり,また宿場町であったことが伺えます。
近隣の史跡
・三原屋本陣跡
小郡は前述したとおり宿場町でした。その本陣が「三原屋本陣」でした。
文久3年(1863)8月19日に,幕府は長州藩が下関で米艦を砲撃したことに対して詰問使を派遣しました。詰問使は「三原屋」で藩主に面会を求めて待機していました。
一部の過激な諸隊士が近くの旅館に集結し,抜刀して三原屋を襲撃し,従者3名を殺害する事件が起こりました。「三原屋事件」です。
これは後の「長州征伐」の要因ともなりました。
場所
御国廻御行程記
・御茶屋跡 勘場跡
「本陣」は「三原屋」なのですが,小郡を通る大名は東津町の「脇本陣」の「御茶屋」を多く利用していたようです。「御茶屋」の北隅には勘場(代官所)が置かれていました。
場所
御国廻御行程記
周防国・長門国(現山口県)の西国街道宿場
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