探索日:2021年2月16日
赤間関(現在の下関)もしくは長府から,ここ「小野」を通り長門市へと続く道は,年貢米などの輸送に利用されていたことから「御米道(ごまいどう)」と呼ばれたそうです。
その「御米道」には,椋野,秋根市,小野,亀ケ原,宮ノ前に一里塚が設置されていたそうです。
直径5~6m,高2.5m,小石積みの円柱形で,下関市の文化財に指定されています。
下関市内では,ここ「小野一里塚」と「一ノ瀬一里塚」との二か所が旧状を良く残しているようです。
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近隣の史跡
・勝山御殿跡
幕末,長州藩支藩の長府藩によって築かれた藩主の居館跡です。
文久3年(1863),長州藩が攘夷を決行し,関門海峡の外国船に砲撃を開始しました。
長府藩主毛利元周は,外国船の報復攻撃に備えて,海岸沿いの長府から内陸部に藩主居館を移転することとし,わずか5ヶ月で急造した藩邸が「勝山御殿」です。
翌年の元治1年(1864) 8月に長州藩は,イギリス,アメリカ,フランス,オランダの連合艦隊に報復砲撃されます。(四国艦隊下関砲撃事件)
そのような時代背景の中,幕末期の台場と従来の近世城郭の両方の構造を取り入れて築造された近世最終期の城郭であり,幕末期の緊迫した軍事状況と当時の築城技術を知ることのできる貴重な史跡です。
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