探索日:2022年2月7日

広島と出雲(松江)を結んでいた「出雲街道(出雲路)」に設置された一里塚です。

「出雲街道」は,広島と浜田を結ぶ石見街道(石州路)と並んで,西国街道に次ぐ重要路でした。

特に広島から可部・吉田・三次までの道は三次往還とも呼ばれ,吉田を本拠地とした毛利氏の広島進出の道でもありました。

壱ノ坪一里塚跡から,七里にあたります。

場所

芸藩通史

国立公文書館所蔵

「切塩」という名称だったのでしょうか?

近隣の史跡

祝屋城(岩屋城)跡

安芸 祝屋城-城郭放浪記 (pei.jp)より引用

永正6(1509)年,五龍城(安芸高田市甲立,広島県指定史跡)の城主であった宍戸元家が,この地に移り住んだ際に築かれたと伝えられます。

当時,宍戸氏は毛利氏と対立していましたが,天文3(1534)年に同盟を結びます。

そして,天文9年(1540)年,富田月山城主の尼子詮久による第一次毛利征伐遠征の際に,祝屋城(岩屋城)は前線基地の役目をはたし,犬飼平古戦場で尼子勢を撃退しました。

その戦勝を祝い,大内義隆の勧めで「岩屋城」から「祝屋城」に改名したそうです。

場所

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