広島城下では高札場(こうさつば)が一里塚の代わりの標になっていたようです。
高札場とは,幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き,人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
広島城下の高札場には馬継場や広島藩公式の宿舎御客室などがありました。
その高札場に明治になって建てられたのが広島県里程元標(りていげんぴょう)です。
1871(明治4)年の県制施行の際,木製の元標が建てられました。
1889(明治22)年の広島市市制施行後,石柱になり,元安橋東詰に建っています。
場所
中国行程記
「中国行程記」にも
「此札場 周防尾瀬川境ヨリ九里 備後尾ノ道ヨリ十九里ニ当ル」
「往古ヨリ市中ナリシ故一里山築所無之壱里ニ当ル所江正保年中札場出来シト也」
とあります。
近隣の史跡
・広島城跡
広島城は別名,鯉城(りじょう)とも言われます。
築城したのは,豊臣政権五大老のひとり,毛利輝元です。
毛利氏はそれまで吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を代々の居城としていました。
しかし,時代が山城から平山城・平城に移っていたこともあり,新たな城地を求め1589(天正17)年から築城がはじまりました。
1591(天正19)年には天守が竣工し,輝元も入城しています。築城自体はその後も続き,完成をみたのは関ヶ原の戦いの前年,1599(慶長4)年のことでした。
しかし,関ヶ原の戦いにおいて,西軍総大将として大坂城にあった輝元は,敗戦後は領地を大きく減らされ,広島を出て萩城へと移っていきました。
替わりに入封したのが,福島正則です。領内に三原城など6か所の支城を置き,1601(慶長6)年には,西国街道を城下を通るように付け替えるなど,城下町の整備にもあたりました。
1619(元和5)年に浅野長晟が入城した以降は浅野氏の居城となり,明治時代に至るまで12代,約250年間続きました。
1945(昭和20)年まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していましたが,原子爆弾投下によって倒壊し,現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものです。
場所
こぼれ話
・西国街道デザインのマンホール
デザインマンホールふたを設置しています – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)より引用
このデザインのマンホールふたは,西国街道のうち,広島電鉄猿猴橋町駅付近から中央通りまでの路線を対象として設置されています。
江戸時代の城下町の大通りであった西国街道のなりわいを浮世絵風にしたデザインになっています。
管理人も,このマンホールの上を歩きながら,歴史を感じていました。
・赤松薬局
西国街道であった本通りの中に,「赤松薬局」があります。
赤松薬局のホームページには「1615(元和)元年,広島城築城にともない備前の国,金川村より出来,現在地にて薬種業を営み始めて400年。広島市中区本通の赤松薬局です。」とあります。
また,「広島県史」には金川屋(赤松薬局)の伝承として「先祖は薬種商の金川屋九郎右衛門で,備前国金川より移住して二宮就辰から播磨屋町に屋敷を与えられた」と書かれているようです。
管路人と少しゆかりのある話なので記述させてもらいました…
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