岡山城下の一里塚は,盛り土した一里塚ではなく火の見櫓が一里塚を兼ねていたようです。
それが,「栄町の鐘撞堂」と言われるものらしいです。
表町商店街のホームページでは,「寛文五年(1665)に建設され,改築を重ねながら栄町の角,現在の渕野歯科がある場所に昭和20年戦火で焼失するまで残っていた鐘撞堂は,20キロ四方に鳴り響き,市民に時を知らせると共に天変地異なども知らせていました。」と説明されています。
火の見櫓とは,火事を警戒するために常時登ったり,火災のとき,出火場所の方向や距離などを見定めるために登る櫓のことです。
櫓上には半鐘が設置されており,これを打ち鳴らして火事を知らせました。
場所
中国行程記には,
「当所一里山ハ此火ノ見ヲ目当二 乄西ハ万成ヨリ一里 東原尾嶋ノ藤原ヨリ一里ナリ
往古ヨリ市中故ニ一里山築所無之 依テ紙屋町此火ノ見ヲ一里塚ト心得シト也 当初江
備中板倉ヨリ二里 播磨姫路ヨリ十九里也」 と説明があります。
近隣の史跡
・岡山城跡
岡山城は別名,烏城(うじょう)と呼ばれます。
元亀元年(1570年)、宇喜多直家がこの地を支配し,天正元年(1573年)に岡山城(当時は石山城)に入城しました。北方の山裾にあった西国街道を,城の南に沿うように付け替えて城下に導くなど,城下町の形成と城の改築を行いました。
直家の子で豊臣政権五大老のひとり,宇喜多秀家が8年の歳月を費やして改築し,慶長2(1597)年に岡山城は完成しました。しかし,慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり,宇喜多家は改易となりました。
代わって小早川秀秋が領主として入城しますが,秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し,嗣子がなく小早川家は断絶しました。
その後は,幕藩体制の下で岡山城は池田家を藩主として明治維新に至りました。また17世紀末には,旭川を隔てて北側に藩主が憩と趣を楽しむ庭として広大な「後楽園」が作られました。
岡山城天守は国宝に指定されていましたが,1945年(昭和20年)の岡山空襲で焼失してしまいました。
場所
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