探索日:2023年3月19日

「瀬戸の一里塚跡」のある島根県飯南町には、多くの史跡標柱が建てられています。

飯南町のホームページによると、「瀬戸の一里塚跡」の解説は以下のように記載されています。

赤名の市街地を抜けた街道は、現在の国道54号と一部重なりながら東側の山裾を進み、赤名峠へ向かいました。ここは、銀山街道・出雲街道の一里塚跡で、「瀬戸の一里塚」と呼ばれています。
この一里塚は、松江城・広島城からともに二十二里の位置にあるといわれ、街道の中間地点として旅人にとても印象深い一里塚だったと伝えられています。当時は、塚の上に大きな松が生茂っていたといわれていますが、今はなく、2代目にあたる松の切り株だけが残っています。この一里塚周辺は当時の街道の様子をよく残しており、「瀬戸の古道」と呼ばれています。

場所

近隣の史跡

・赤名宿本陣肥後屋跡

飯南町のホームページによると、「本陣肥後屋跡」の解説は以下のように記載されています。

江戸時代後期、赤名宿の本陣は肥後屋に置かれており、その屋敷はこの辺りにありました。運上銀・銅を運んだ輸送隊の一行は人夫およそ400人、牛馬300頭からなる大行列だったといわれていますが、その責任者であった「宰領」と呼ばれる役人は本陣肥後屋で休息をとりました。
幕府の天文方として諸国を測量した伊能忠敬も大森からの測量途中の1811年(文化8)、この肥後屋に宿泊したことが伊能忠敬の測量日記に記されています。
本陣肥後屋からは赤名川へ出る道(標柱に向かって真後ろ)が続いていますが、川を渡った辺り一帯は「赤名川原」と呼ばれ、石見銀山から輸送されて来た運上銀・銅の引継ぎが行われていました。前日の宿泊地である九日市宿を早朝に出発した輸送隊の一行は、午前八時ごろには赤名宿に到着し、銀・銅を新しい牛馬に付け替える作業に取り掛かりました。
赤名川原では荷を降ろされ足を冷やし、水を飲む牛馬、荷を取り付けられ出発を待つ牛馬など500頭以上がひしめく中、荷の付け替えを行う人々があわただしく働きました。

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