探索日:2023年3月19日

設置の看板には、以下のように記載されています。

 赤名峠の歴史は古く、万葉の昔、歌人の柿本人麻呂も通り、江戸時代には幕府直轄の大森銀山から、銀や銅の運搬に荷駄を連ねた難渋の峠でもあった。曲がりくねった急な坂をテクテク歩く人・牛・馬の憩の峠の茶屋もありましたが、今は訪ねる人もなく、中国山地越えの歴史と秘話を物語っています。

 一里塚とは、今から400年前の慶長3年(1604年)、徳川家康は、東海道・中山道などの諸街道に江戸日本橋を元票として一里(約4キロ)ごとに塚を築き、これを一里塚としました。広島藩では寛永10年(1633年)2月に村道は広さ3尺(約90cm)に定めて、国境から尾道に至る官道の一里塚としました。その後、明治10年(1877年)10月、時の広島県令が交通の不便と耕地の影になるとして取り除くよう命じたため、今残っているものは少なくなりました。

 また、旧藩時代には、こうした交通の要所として関所・番所(ばんどころ)・木戸という施設が置かれました。その番所跡が、一里塚の前にありましたが、今は田んぼになっています。

芸藩通史

国立公文書館所蔵

場所

近隣の史跡

国境の碑

国境の碑の横には「史跡出雲街道と藩政時代の国境の碑設置」という題の看板があり、以下のように記載されています。

 広島県と島根県を結ぶ旧国道の赤名峠は、昭和39年(1964)に赤名トンネルが開通するまで冬季は積雪が多く交通の難所でした。古くは、旧藩時代の広島藩が定めた規格7尺の道幅で、石見銀山から銀や銅を大阪に運んだ銀の道です。国境を示す標柱は当初木柱でしたが、享保5年(1720)に石柱に建て替えられ、更に天保3年(1832)の藩名変更に伴い広島で新調し現地で取り替えられました。

 それまで出雲路と呼ばれていた街道は、明治9年(1876)に県道改修工事で一等県道になった時から出雲街道と改称されています。時を経て明治20年(1887)県道改修工事の際、碑は旧横谷村瀬戸八幡神社へ移されました。

 以後120年にわたり神社境内に保管されていましたが、天保3年に再調した一基を、布野町住民が進める「まちづくりビジョン」に基づく出雲街道整備の一環として、平成19年6月24日現在地に移設復元しました。

 なお、享保5年に作られた初代の石碑は、赤名トンネルから広島方面へ約4km下った地点の八幡神社境内に保存しております。布野町町づくり連合会

上記の芸藩通史にも「境石」という表記がみられます。

場所

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