探索日:2024年5月4日
![](https://itiriduka.blog/wp-content/uploads/2024/06/89b9db60fd6ede1fbf77d1f9c879ffd1-1024x768.png)
![](https://itiriduka.blog/wp-content/uploads/2024/06/d010857d62f5ff5d7df2fed7600cf1e5-768x1024.jpg)
![](https://itiriduka.blog/wp-content/uploads/2024/06/900bd6cc93ab75f716983ce72ec22a1d-1024x739.png)
設置の案内板によると、
『文政年代(1818年~1830年)の記録によれば、「雪は丈余(約3メートル余り)も降り積もり戸口より出入申さず破風口を開き軒際より入仕候」とあり、昔から吹雪の日に往来の目印になった老松である。またここは陰陽を結ぶ往還道で、この一里塚には「左わさ・庄原・ほんぢ」と刻まれ旅人の重要な道標であった。』
とあります。
場所
芸藩通史
![](https://itiriduka.blog/wp-content/uploads/2024/06/3be8ff4af0bd98a04a3930219211a7e0-1024x690.jpg)
残念ながら、あったと推測される荒神原村に、一里塚の標はありません。
探索日:2024年5月4日
設置の案内板によると、
『文政年代(1818年~1830年)の記録によれば、「雪は丈余(約3メートル余り)も降り積もり戸口より出入申さず破風口を開き軒際より入仕候」とあり、昔から吹雪の日に往来の目印になった老松である。またここは陰陽を結ぶ往還道で、この一里塚には「左わさ・庄原・ほんぢ」と刻まれ旅人の重要な道標であった。』
とあります。
場所
芸藩通史
残念ながら、あったと推測される荒神原村に、一里塚の標はありません。