探索日:2008年7月27日

2021年12月の様子

大野浦駅か改装(平成30年(2018)に駅改良工事が完成)され,すごくキレイになってました。

そのため,一里塚の石碑と今川貞世歌碑も場所が移動していて,後ろにあった大きな観光案内板はなくなっていました。

石碑の側面には「これより東北約二十米付近」と刻まれています。

「塩屋一里塚跡」とも呼ばれているようです。

場所

行程記

山口県文書館 所蔵

行程記には,「周防尾瀬川堺ヨリ三里,廣嶋札場ヨリ六里」と記されています。

芸藩通史

国立公文書館所蔵

近隣の史跡

千人塚

千人塚 – 一般社団法人はつかいち観光協会 (hatsu-navi.jp)より引用

幕末の第二次長州戦争のとき,この地は戦場となりました。

慶応2年(1866)6月12日から,8月8日に幕府軍が敗れ退却するまでの2ケ月間,この地で何度も激戦が繰り返されたといいます。

最も激しい戦いは6月19日と6月25日で,多くの人が犠牲になっています。

紀州新宮藩士 橋本角兵衛など,無念にもこの地で散った藩士たちは,この戦いで戦死した多くの無名の戦士たちと同じ場所(大頭神社の入口)へ葬られ,「千人塚」と呼ばれています。

場所

ディスカッションに参加

1件のコメント

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です