探索日:2008年3月29日

2021年2月の様子

看板が新しくなっていました。

場所

近隣の史跡

板倉宿

2021年12月撮影

宿場町板倉(しゅくばまちいたくら)

 板倉の地名については,平安時代の百科事典である『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)で板倉郷(いたくらごう)とされ,平安時代末期の源平戦では,地元の有力豪族であった妹尾太郎兼康(せおのたろうかねやす)が木曽義仲(きそよしなか)の軍勢を迎え撃って討ち死にした戦いの場として知られています。江戸時代になりますと,西国街道(山陽道)が通り,備前国と備中国の国境に近い備中最初の宿場町の板倉宿(いたくらしゅく)として広く知られるようになります。宿場町は松山往来(まつやまおうらい)の起点(真金十字路)であり,南にいけば庭瀬陣屋町(にわせじんやまち)があるとい交通の要地であったことから,次第に繁栄し,江戸中期になると,本陣・脇本陣各1軒のほか,駕籠屋の数も70件におよびました。そのほか茶屋も次第に増加し,板倉町(いたくらちょう)とも呼ばれるようになりました。宿場の東端には真金一里塚(国指定史跡)が残っています。道を挟んで南北一対の塚です。北塚に松,南塚にエノキが植えてありました。現在も,塚から西にかけては,宿場町の面影が色濃く残っています。

設置してある看板より引用

「中国行程記」にある,「備後尾ノ道ヨリ○里、備中板倉ヨリ○里」の備中板倉は,この板倉宿のことです。

場所

備前国・備中国・美作国(現岡山県)の西国街道宿場

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