探索日:2022年8月28日
萩往還の起点となる場所で、高札場でした。
萩往還のほかにも、赤間関(あかまがせき)街道、石州(せきしゅう)街道の起点でもあり、防長(周防国と長門国)の一里塚の基点でもありました。
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
西国街道でも、広島城下では高札場が一里塚のかわりとされています。
場所
行程記
萩往還とは
萩往還は、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれました。日本海側の萩(萩市)と瀬戸内海側の三田尻港(防府市)をほぼ直線で結び、全長はおよそ53km。
江戸時代の庶民にとって山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な交通路であり、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしました。
萩往還には、人馬の往来に必要な一里塚や茶屋跡、通行人を取り締まる口屋跡が残っています。大部分は国道や県道、公道として現在も利用されていますが、起伏の激しい山間道の中には廃道となったものもありました。そこで、近年これらを保存し、後世に伝えていくために整備が進んでいます。
幕末に維新の志士たちが時代とともに駆け抜けた萩往還。はるか江戸につながるこの道を、武士や庶民、そして幕末の志士たちはどのような想いで歩いたのでしょう。
歴史を感じ 自然を感じる 萩往還を歩こう ー萩往還とはー (yamaguchi-city.jp)より引用
近隣の史跡
・萩城跡
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が日本海に面した標高143mの指月山の山麓に築城したことから、別名指月城(しづきじょう)とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。
本丸には高さ14.4mの五層の天守がありましたが、明治7年(1874)に天守、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が往時の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。
場所
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